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いまどきの女の気持ち
宝井琴桜
神奈川県川崎市といえば南部の工業地帯のイメージが強いが、北部には山も畑もあり、のどかな農村の雰囲気が残っている。
毎年春分の日、山際にあるあるお寺に伺うことになっている。彼岸会法要の前に檀家さんの前で一席語るためである。曹洞宗のお寺は四〇数段の石段の上にあって、その中程に茅葺き屋根の山門がある。間口九尺控造りの純粋な禅宗様式、文化七年に再建されたというから一九三年前だ。その間たびたびの災害にも無事で、大正十二年の関東大震災の折は、前へ一尺程度動いたが倒れはしなかったという。二〇〇年もの命を持つこの山門を、今年も無事にくぐることができたという幸せと、また一年が過ぎ去ってしまったというとまどいを抱きながら庫裡へ伺えば奥様の姿がない。「今、入院しているんですよ。腰を打ちましてね。ひと月になりますか。でもあと二・三日で退院できるようです」と若奥様。続けて「私、本当に寂しいんです。お茶飲み相手がいなくなって」この言葉を聞いて私は、何だかふんわりとした春風に包まれたような気分となった。姑さんが入院して寂しいというお嫁さん。昔から嫁と姑といえば仇のような対立の図式があるけれど決してそうではない。人と人は信頼関係を築くことができる、不可能ではないということだ。
ああそれなのに、また戦争が始まった。独裁者フセインを倒さなければ世界の平和が成り立たない。イラク国民の解放のためにはやむをえない。北朝鮮の脅威があるからアメリカの同盟国としてわが国も支持するのは当然だとか何とか・・・。平和のためでも戦争は戦争、命が奪われていく。人の命だけではない。チグリス・ユーフラテス流域のメソポタミア文明発祥の地で、いまだに人間は戦争をしているのだ。
たまたま最近、ある男性から被爆体験を伺うことができた。昭和二十年八月六日、彼は学徒動員で廿日市の軍事工場へ向かうために、広島市内の自宅の玄関でゲートルを巻いていた。突然、バリバリ、耳をつんざく音と共に突き刺すような光が斜め上から降ってきて、おびただしい光の矢がそこら中に跳ね返り目が眩んだ直後、すごい衝撃で吹き飛ばされた。気がつくと体のあちこちにガラスの破片が突き刺さり血が流れている。爆心地からわずか二`で被爆した彼の話はまさに地獄のよう。一足早く家を出たお父さんは行方知れず。廃墟の街を幼い妹を背に父を捜し歩く彼。かつて水遊びしていた太田川も無数の死体が流れて行く。人の一生が戦争によって閉じられ肉体の行き着く先が冷たい海底だというのに、あの時の自分は何の感情も湧いてこなかったんですよと言う。命ばかりか生き残った人の人間らしい感情をも奪う、それが戦争だ。今、彼は小学生たちに体験を語っているそうだが、「子供たちは熱心に聞いてくれるんですが、どうも家族からは煙たがられましてね。またその話−なんてね」。家庭の平和から世界を考えよう。じっとしてはいられない。
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